北京五輪開会式のCGと口パクについて
北京五輪開会式において、メインスタジアムに向かって一歩ずつ迫ってくる巨大な足跡のような花火が実はCGで、開会式で素晴らしい歌声を披露した可憐な女の子が実は口パクであったそうです。数日前にこのニュースを聞いて、上手く言葉にはできないけれども漠然とした不快感を覚えていたのですが、その不快感の正体を少しだけ言葉にできるような気がしましたので、簡単にメモを残しておきたいと思います。
一言で表せば、今回の捏造は、単に中国という国家の捏造体質の表れだとかいう表面的な嫌中のレベルを超えて、スポーツそのものに対する侮辱なのではないかと思うのです(念のため明言しておきますが、僕は嫌中でも媚中でもありません。中国の歴史や文化には敬意を表しますが、一方で、現在の共産党政府のやり方には憤りを覚えてもいます。ある意味、ノンポリです)。
僕は、スポーツの魅力の本質とは、たった一回限りのチャンスにベストを尽くしきるアスリートの強さにあると考えています。スポーツは、たとえどんなに努力を重ねても、辛い練習を重ねてきても、本番の舞台で実力を発揮できなければ意味がないわけです。本番で実力が出し切れないかもしれない、ミスをするかもしれない、そんな色々な不安がアスリートには常につきまといます。それでも、アスリートは必ず勝つと信じて一歩を踏み出します。そのような一回きりの勝負に賭けるアスリートのチャレンジング・スピリットこそがスポーツの魅力なのです。結果がどうなるかはわからないとしても、重圧に潰されることなく本番に立ち向かうアスリートの勇気と意志の強さに、僕は敬意と憧憬の念を覚えます。柄谷行人の言うところの「暗闇の中での跳躍」を体現しているのがアスリートなのです。
そのような「暗闇の中での跳躍」を行うことこそがスポーツの魅力の本質であるとすれば、敷衍すると、スポーツにおいては勝つことそれ自体が最終的な目的ではないと思うのです。たとえ失敗しても、自分のベストを尽くしたのであれば、それは称えるべきだと思います。スポーツに絶対ということはないのです。どんなに強いアスリートでも、時には負けるかもしれない。それでも、たとえ負けたとしても、アスリートは美しいし、スポーツは崇高なのです。だから、スポーツに「完璧を求めた演出」など不要なのです。スポーツは、特にオリンピッククラスのアスリートたちの競演は、結果はどうあれ、ただそれだけで観る者を感激させ、熱くさせるものなのです。
そんなスポーツの祭典であるオリンピックの開会式において、CGや口パクといった「作り物」を用いるということは、スポーツの一回性とそれに立ち向かうアスリートの強さの否定なのではないかと思えてなりません。CGや口パクは、一回限りのチャンスに全てを賭けるのを諦めた、単なる逃避であって、弱さの象徴なのだと思います。どうかスポーツを「作り物」にしないでください。どうかスポーツの崇高な魅力を貶めないでください。NHKで中継しているマイナーな競技を観戦しながら、切にそう願います。
蛇足ながら、僕がこれまで観たオリンピックの中で最高の開会式は、1992年のバルセロナオリンピックのそれです。バルセロナの聖火の点火の仕方は、聖火台にアーチェリーで火矢を打ち込むというものでした。あの矢を放った選手は、まさに「二本目の矢」のことを考えることなく、これで成功させるのだという決意をもって臨んだのだと思います。そして、見事に成功させました。あれこそがスポーツの祭典と呼ぶにふさわしい、感動的な開会式だったと思います。YouTubeに点火の瞬間の動画がありましたので、リンクしておきます。
YouTube - Olympic Barcelona 1992 Opening Ceremony - Flaming Arrow`
http://jp.youtube.com/watch?v=0vyLmkOesOE
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