七夕考 4.罪から赦しへ
8ヶ月ぶりのブログ更新となってしまいました。最近はすっかりTwitterが流行りで、長文のブログなど読む人はあまりいないのかもしれませんが、ある程度まとまった自分の考えの備忘のためには、ブログというツールの有効性は減じていないと思っています。
この「七夕考」も、結局、1年ぶりの更新です。いつ考察が終了するのやらといった感じですが……。さて、第3回が七夕伝説における刑罰の目的や効果という刑事法的な観点からの考察でした。第4回の考察では、同じく七夕伝説の刑罰について、前回とはちょっと視点を変えて、刑事法というよりは法哲学的な観点から七夕伝説を考察してみたいと思います。
いきなり抽象論から入りますが、ある者が罪を犯して、その罪が赦されるまでには、原則として4つの段階を踏むと考えます。1.罪を犯すこと、2.罰を与えられること、3.罪を贖うこと、4.赦しを与えられることの4つの段階です。1と3が自律的な行為、2と4が他律的な行為となります。それぞれを詳しく見てみましょう。
第一段階は「罪を犯すこと」です。当たり前のように思われるかもしれませんが、「お前は罪を犯した」といくら他者から糾弾されようとも、自分自身がそれが罪になると認識しなければ、それは「罪を犯した」ことにはならないと思います。法律用語としての「確信犯」や責任故意・過失の論点ですね。罪を犯したことの自覚と言い換えても良いかもしれません。「罪を犯した」ことの自覚、それは非常に自律的な行為であると考えます。
第二段階は「罰を与えられること」です。第一段階と比較すると、こちらは非常に他律的な行為であると言えます。もちろん、罪の自覚なしに罰を与えられることはありますし、さらには冤罪のように罪を犯していないのに罰が与えられることすらあります。
第三段階は「罪を贖うこと」です。第一段階同様、自立的な行為です。そして、罪を犯した者自身にできることは、これだけです。赦しが与えられるか否かは、罪を犯した者には与り知らぬところなのです。彼/彼女にできるのは、ただひたすらに償い、贖うことだけです。そのような意味で、贖いとは無償の、ある意味では無益な行為であるとも言えます。とはいえ、たとえ無益であるとしても贖い続けること、そこに人間の実存の尊厳があると思うのです。カミュの『シーシュポスの神話』ですね。また、死刑制度存廃問題の大きな問題の一つは、死刑を執行されたらもはやそれ以上罪を贖うことができなくなるわけですが、それで良いのかという点にあるようにも思います。
第四段階は「赦しを与えられること」です。赦しは与えられないこともあります。他律的な行為ですが、赦しを与える主体とは誰であるのかという問いがあります。被害者かもしれませんし、その遺族かもしれませんし、あるいは社会であるとか、神であるかもしれません。
以上の4つの段階を七夕伝説にあてはめてみると、どうなるでしょうか?
第一段階の「罪を犯すこと」は、「織女と彦星が夫婦になってから以前のように勤勉には働かなくなったこと」です。ただし、織女と彦星に、それが罪であるという自覚があったか否かは不明確です。少なくとも、それが大罪であるという認識はなかったように思います。
第二段階の「罰を与えられること」は、「夫婦を別居させるが、7月7日だけは夫婦が逢うことを認める」というものです。ただし、罰が与えられる期間がいつまでかについては不明確です。
第三段階の「罪を贖うこと」および第四段階の「赦しを与えられること」については、七夕伝説からは明らかではありません。ここにこそ、七夕伝説について考察する意義があると考えます。罪を犯した場合、どのように贖えば良いのか、そして、赦しは誰からいかにして与えられるべきなのか。その2つの論点について自分なりの回答を示すこと、それがこの「七夕考」の最終目的であると考えています。
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